「ニューラルネット界の怖い人」に襲われた時に

NAIST後期博士課程の品川政太朗氏のツイートが興味深い。ディープラーニングについて説明する時に安易に「人の脳を模倣」といった類の表現をすると、ニューラルネット界の怖い人から強く反論されるという話である。

筆者はこの種の表現を聞いて即座に噛み付くような事はしないが、講義などでディープラーニングの解説をする時はついつい「あくまでも神経回路が持つ情報伝達の形を真似しただけ」という補足してしまうので、本稿は自戒の念も込められている。(スパイキングニューラルネットワークはどうだとかいう話はここでは念頭に置いていない。)

ニューラルネットワークは単に関数を使って情報を伝達しているだけなので、脳の複雑な仕組みを「模倣」していると言われると、疑問を持つ専門家は非常に多い。

但し、最近は筆者もそこまで気にしなくなっている。なぜかと言えば、その本質は脳がどうこうと言うよりかは「模倣」というキーワードが肝ではないかと考えるようになったからだ。

「模倣」に似た言葉に「真似」がある。

模倣(デジタル大辞泉の解説)

[名](スル)他のものをまねること。似せること。「人の作品を―する」

コトバンク

真似(デジタル大辞泉の解説)

[名](スル)

 まねること。また、形だけ似た動作をすること。模倣。「ボールを投げる真似をする」「アメリカ映画の真似をする」

 行動。ふるまい。「ばかな真似はよせ」[動ナ下二]「まねる」の文語形。

コトバンク

辞書的には一般的な意味にはあまり違いは無いが、ブリタニカ国際大百科事典だと、心理学や社会学、哲学など広範な用語として存在するという風に説明される。こういうところから来ているからだろうか。「模倣」の方が「(真似の)完成度が高い」ようなニュアンスで使われることが多い印象がある。

先程「あくまでも神経回路が持つ情報伝達の形を真似しただけ」と書いたが、「模倣」ではなく「真似」という用語を使うのは「ニューラルネット界の怖い人」に襲われないための予防策の一つではあると思う。

もし「脳を模倣」というキーワードを使ってしまって襲われてしまった場合は、以下の反論が良かろう。

「あなたが考える模倣の定義は何ですか?私はあくまでも形式の真似という意味でしか使っていません」

「ニューラルネット界の怖い人」は人工知能研究がメインであることが多いが、その「模倣」材料として神経科学に足を突っ込んでいる場合が少なくない。しかし、神経科学においても「模倣」の定義は一様ではない。例えば、国立障害者リハビリテーションセンター研究所研究室長である幕内充氏は、「模倣」の説明の中で、以下のように述べている。

模倣には同一目的の達成から運動形式の正確なコピーに至るまで様々なレベルが含まれうるし、各レベルでの模倣はその心理学的・神経学的本質が異なる可能性がある。神経画像法研究ではその差異を明確に区別せずに脳基盤の研究が行われており、実験結果のみならずその解釈も多様である。

脳科学辞典:模倣

基本的に「模倣」とは運動の模倣であり、「人の脳を模倣」と言うと、なんとなく「神経回路の複雑な運動」を再現するような印象を受ける。しかし、同氏が言うように「同一目的の達成から運動形式の正確なコピーに至るまで様々なレベル」が存在するのであり、「模倣」というキーワードから噛み付かれても議論が噛み合わなくなる。

例えば「イチローの打撃フォームを模倣した」と言った時、単に打撃フォームの形をコピーするモノマネレベルから、筋肉の使い方のコピーまで目指すレベル、そしてイチローのように打てるようになるレベルまで多様であるはずだ。

イチローのフォーム(毎年変わっていたが)を単に遊びレベルで模倣している人に対し、「筋肉の使い方が違う」だとか「そもそも筋肉の付き方がおかしい」とか「それでは首位打者を取れない」と言っても会話にならない。

それと同じで、ディープラーニングの説明において「人の脳を模倣した」と言ったところで、発言者が「脳の複雑な神経回路を忠実にコピーした」と念頭に置いているとは限らないし、そう考える人は少ないだろう。

冒頭の品川氏も無難な表現として挙げている「脳の神経回路の仕組みに学んだ」と言い換える時点でも「模倣」というキーワードを暗黙(?)のうちに排除している。脳がどうこうよりも「模倣」の方が問題であり、それを避けるのが重要だ。そして、もし「襲われてしまった」場合は、模倣の定義で食いつけば良い。

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金融・マーケティング分野の機械学習システム開発や導入支援が専門。SlofiAでは主に海外情勢に関する記事、金融工学や機械学習に関する記事を担当。

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