スポーツ組織に問題があってもスポーツ庁が動けない理由

ここ数年だけ見ても、相撲、体操、テコンドー、レスリングなどスポーツ団体に関わる問題は多く発生し、メディアでも多く取り上げられた。その中でスポーツ庁長官は「懸念」や「遺憾の意」を示すだけで動かないという批判は多い。

例えば、テコンドー騒動に対してはJBpressで臼北信行氏が10月に以下のように書いている。

それにしてもスポーツ界を揺るがしかねない、こんなゴタゴタが起きているというのにスポーツ庁長官や東京オリンピック・パラリンピックの担当相は一体何をやっているのだろうか。「こういう時に動かなければ、要職に就く意味がないのでは」「問題解決のために政府として救いの手を差し伸べてほしい」などといった悲痛な叫びは、今回の問題で決起した選手サイドや関係者たちからも数多く耳にする。都合のいい楽な仕事ばかりするのではなく、東京五輪にも悪影響を及ぼしかねない問題の解決に腐心しながら努めてほしいと切に願う。

JBpress「闇深いテコンドー騒動、スポ庁と五輪相に批判も」2019年10月3日

「こういう時に動かなくて何の為のポストだ」と言いたい気持ちは分かる。しかし、広く文化政策として見た時、簡単に動けない理由がある。それは怠慢なのではなく歴史的な問題である。

文化支援の内容不干渉の原則

スポーツ庁が文部科学省の外局であることからも分かる通り、広く見ればスポーツも文化の一部であり、文化政策の枠組みとして考えられるものである。

しかし、現代の文化行政においては「文化支援の内容不干渉の原則」と呼ばれるものが前提となっている。根木昭(2003)は『文化政策の法的基盤-文化芸術振興基本法と文化振興条例』の中で、2001年の文化芸術振興基本法で「文化芸術活動を行う者の自主性の尊重」が3箇所に渡って明記することで当原則を強調していることを示している。

その実現方法は、文化支援を行う際に文化芸術振興機構などを通して政府と文化芸術団体などとの間に距離をもたせることで独立性を担保することである。たとえお金を出していても口を出さないというのが文化行政の原則なのである。

これは戦時中に国が文化芸術に介入したことに対する反省の意味があるわけだが、別にこの考え方は日本特有ではない。ヨーロッパでも政治的プロパガンダのために芸術を利用したナチスドイツといった例があり、文化行政に同様の考え方を持つ国は欧州を中心に多い。

例えば英国はケインズが提唱した「アームスレングスの原則」に準拠している。これは「腕の長さ」という名前になっている通り、利害関係にある当事者間が一定の距離を保つことを意味し、「内容不干渉の原則」とほぼ同様の意味と考えて良い。

スポーツに関しても同様で、あるスポーツ団体に組織的な問題が生じたからと言って、すぐに口出しすることは文化行政の理念上許されないわけである。だから懸念を示したり改善を要求したりといった言明は行われるが、それ以上の介入を(少なくとも即時的には)行えないわけである。

時代遅れの文化相対主義が理論的根拠

しかし、文化支援の内容不干渉の原則は文化相対主義を理論的根拠としている。文化相対主義は「組織の多様性を推し進めるには多様性を無くすべき」という矛盾(1):間文化主義でも論じたが、「文化に優劣は無く、全ての文化に価値があるとして対等に扱う考え方」である。しかし、例えばイスラム教国家で女性に対する人権侵害が行われていても「イスラム教の文化だ」と言われれば何もできなくなる構造上の欠陥(文化相対主義の地獄)を抱える。

文化的多様性の議論においては多文化主義や間文化主義といったアップデートが図られている。一方で文化行政については文化相対主義で止まっている。現にスポーツ組織で多くの問題が発生しているのに何も動けないというのは、まさに文化相対主義の地獄そのものではないか。

真正面から組織改革に対して口出すことは戦前の反省からできないにしても、例えば間文化主義に則りスポーツ庁と対話する仕組みなど文化行政自体のアップデートが必要であると考えられる。そうでなくては「スポーツ庁長官というポストは無意味」という批判が妥当なものになってしまう。意味のあるものにするためには、意味のある権限が必要である。

補足:あいちトリエンナーレの問題は別

この議論を都合良く使われたくないので補足するが、あいちトリエンナーレの「表現の不自由展」に対する問題はまた別である。文化行政は表現に対する口出しはできないが、あれは「当初の申請と展示内容が異なること」が問題であり、表現の自由に対する介入ではない。

税金は無尽蔵ではないので、いくら文化相対主義の立場だったとしてもあらゆる表現に支援を行うことは財政的に不可能である。実際にどこに支援を行うかは文化行政側に決定権がある。いざ支援した後は口出しはしないが、それはあくまでも申請内容と一致している場合の話である。

昭和天皇に対する名誉権の侵害(名誉毀損)が成立するかなどは分からないし、死者に対する人格権の侵害は未だ議論が不十分な分野なので、表現の自由と公序良俗の問題のバランスについては筆者は判断できないが、この問題はそれとは全く無関係である。

参考文献

根木昭(2003)『文化政策の法的基盤―文化芸術振興基本法と文化振興条例』水曜社

       

この記事の著者 HAL について

金融・マーケティング分野の機械学習システム開発や導入支援が専門。SlofiAでは主に海外情勢に関する記事、金融工学や機械学習に関する記事を担当。

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