ESGの時代だからこそスピントロニクス

現代の標準的なコンピュータを見れば、頭脳に当たるCPU、机に例えられる主記憶装置(RAM)、本棚に例えられる補助記憶装置(HDD、SSDなど)が中心である。この時、RAM(DRAM、SRAM)は計算する時に「一時的に」情報を蓄えておく場所であり、低遅延ではあるが電源が切れると消えてしまう「揮発性」である。一方でHDDやSSDは電源を切っても情報が残る「不揮発性」であり大容量だが遅い。

コンピュータの構成
出典:株式会社ケイフィックス

このように従来のエレクトロニクス(電子工学)は、揮発性と不揮発性のトレードオフの中での技術であった。それを解決しようとする試みの一つがスピントロニクスである。

ノーマリー・オフとスピントロニクス

コンピュータは人間が何もしていない時にも様々なプロセスが走っており、何らかの処理が行われている。しかし、Microsoft Wordを開いて何か文章を書いている途中の事を考えれば、その間コンピュータは(裏で思いアプリケーションなどを動かしていない限り)大した仕事をしていない。しかし、その間も書きかけの文を主記憶装置は保持するために、ずっと電流が流れているのである。

省電力が求められている時代において揮発性メモリは無駄が多い。もし、電源オフを基本とし、演算が必要な時にだけ電源をオンにすることができればESGの時代に相応しい技術となろう。電源オフを基本状態としてする設計は文字通り「ノーマリー・オフ」と呼ばれ、その実現に期待がかかるのがスピントロニクスである。

スピントロニクスは「スピン」と「エレクトロニクス」の合成語である。電子は電気としての性質である「電荷」と磁気としての性質である「電子スピン」を持つ。従来、電荷を利用した従来の電子工学では揮発性を扱い、電子スピンを利用した磁気工学では不揮発性を扱っていた。

スピントロニクスは、電荷とスピンの間にある相互作用を活かすため、何らかの量子効果を活用することで、不揮発性だが高速という美味しいとこ取りをしようという学問である。

磁気抵抗効果(GMR)とトンネル磁気抵抗効果(TMR)

この学問が生まれる前に重要な効果として位置付けられるのが磁気抵抗効果(MR)である。これは、固体物質や固体素子に磁界を印加(電圧や信号を与えること)することにより電気抵抗が変化することを言う。以下は湯浅ら(2009)の内容を整理したものである。

磁気抵抗効果を利用すれば、磁界信号を電気信号に変換できるので、強磁性体の磁気ヒステリシス(磁気履歴)を利用すれば、磁気記憶のような不揮発性メモリを実現できる。

磁界による相対的な電気抵抗の変化率を磁気抵抗比(MR比)というのが、当初は室温・低磁界におけるMR比が低く、応用性は期待されていなかった。しかし、アルベート・フェールとペーター・グリューンベルクは1988年に、従来の10倍程度のMR比を実現する巨大磁気抵抗効果(GMR)を発見したことが電子工学を大きく変えた。

GMRは1998年にHDDの再生磁気ヘッドとして実用化され、HDDの大容量化につながっている。フェールとグリューンベルクは2007年にノーベル物理学賞を受賞している。

もう一つ重要な量子効果がトンネル磁気抵抗効果(TMR)である。厚さ数ナノメートル以下の絶縁体層(トンネル障壁)を2枚の強磁性電極で挟んだ素子を「磁気トンネル接合素子(MTJ素子)」と言う。絶縁体は普通は電流を流さないが、これほど薄くなると量子力学的な効果による微小な電流が流れる。これをトンネル効果というが、平行磁化状態(下図a)では大きな電流が流れるが、反平行磁化状態(下図b)では抵抗が大きくなり流れる電流が小さくなる。これをトンネル磁気抵抗効果(TMR)と言う。

MTJ素子の平行磁化状態(a)と反平行磁化状態(b)
出典:湯浅ら(2009: 214)

MTJ素子に磁界を印加すれば、平行磁化状態と反平行磁化状態をスイッチでき、かつ強磁性体により2値安定状態を保てる。これによりMTJ素子が1ビットの情報を不揮発的に記憶できる。

低温状態でのTMR効果自体は1970年代から知られていたが、室温での磁気抵抗効果を得られなかったので無視されていた。しかし、GMR効果の発見により再度注目が集まり、1995年に宮崎照宣らとムデーラらが室温TMR効果を実現し、2004年にはHDD再生磁気ヘッドとして実用化されている。

TMR効果が更にHDDの大容量化と高信頼性を実現していき、容量の推移を見ても著しい。最近はSSDの価格も下がり、そちらへのシフトも続いているが、スピントロニクスを見る上でHDDの技術進歩は無視できない要素である。

市販ハードディスク 最大容量の変化
出典:科学技術振興機構「トンネル磁気抵抗(TMR)」

スピン流研究の流れ

TMR効果の次、金属や半導体など材料分野だけでなく、広く基礎科学でスピン流が注目されるようになる。

電流とは「電荷」の流れのことであるが、通常は上向きのスピンと下向きのスピンはほぼ同数ずつ存在し、互いに打ち消し合う。それを何らかの方法でバランスを崩すと、スピンが磁気の流れを作り出す。これをスピン流と言う。

スピン流研究は日本人による貢献が大きく、電子素子などとして応用が期待される純スピン流を効率的に生成する研究なども盛んである。純スピン流については九州大学の木村崇らの説明が分かりやすい。

上向きスピンの電子と下向きスピンの電子が互いに逆方向に流れると、電荷の流れが相殺され電流がゼロとなるが、スピンに関しては、下向きスピンが左から右に流れることと上向きスピンが右から左に流れることと等価であるため、各電子のスピン流は強めあい、電子2個分のスピン流が流れることになる。このように電気を運ばずスピンのみを運ぶ電子の流れを純スピン流という。

木村崇ら(2014)「熱を使った効率的な純スピン流生成に成功~電荷レスでワイヤレスなスピンデバイスの実現に一歩前進~」

MRAMとしての応用

スピントロニクスのもう一つの応用事例がMRAM(磁気抵抗メモリ)である。これは名前の通りTRM効果を利用した不揮発性の主記憶装置で2006年に実用化されている。次世代の主記憶装置として期待されており、

  • 不揮発性
  • 低消費電力
  • 大容量
  • SRAMに近い動作速度

という特徴があり、DRAMほどの高速性は難しいが、SRAMよりやや遅いが大容量・低消費電力のメモリとして代替化される可能性がある。

MRAMは以前に紹介したNVE Corporationの主要技術の一つでもあり、今後新しい技術として競争も更に激化していくと考えられる。

関連記事:IoTとMRAMで長期的な成長が期待できるNVE Corporation

2018年時点で半導体メモリ市場における次世代不揮発性メモリの割合は0.2%(2.8億ドル)と非常に小さいが、2023年には72億ドル(3%)と急成長していくと予測されている。

参考:PC WATCH「MRAMの市場規模、2024年には2018年の40倍へと急伸~「MRAM開発者デー2019」レポート」2019年8月7日

今のところMRAMは高価だが、技術的な成長余地は限界を迎えつつSRAMなどに比べて潜在性がある。一方で高梨(2017)によれば、さらなる高性能化にはTMR素子の電極となる磁性材料の発見にかかっているという。

それでもESGやらSDGsなどで消費電力を抑えるためのMRAMは今後も注目され、後一歩技術的ブレークスルーが起これば、一気に市場拡大に繋がると思われる。

スピントロニクスを学ぶために

今のところスピントロニクスを学習するための一般書は見当たらない。代表的で最も分かりやすいと言われる教科書が齋藤ら(2014)『スピン流とトポロジカル絶縁体 ―量子物性とスピントロニクスの発展― 』だが、これでも大学学部レベルの物理学の知識が必要である。

一般的な知識や流れとしては、本稿でも参考文献として利用した以下の2つの論文が簡潔で分かりやすいように思える。(いずれもPDF注意)

[1] 湯浅新治, et al. “スピントロニクス技術による不揮発エレクトロニクスの創成.” Synthesiology 2.3 (2009): 211-222.

[2] 高梨弘毅. “スピントロニクス材料の発展と展望.” まてりあ 56.3 (2017): 190-194.

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金融・マーケティング分野の機械学習システム開発や導入支援が専門。SlofiAでは主に海外情勢に関する記事、金融工学や機械学習に関する記事を担当。

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