上司に酒を注がれたから飲むというイスラム原理主義

イスラム原理主義と聞けば過激派などネガティブなイメージを持ちやすい。それもそのはずで、 臼杵(1999)なども指摘するように、本来はキリスト教の保守主義による原理主義(ファンダメンタリズム)が、イラン革命と結び付けられることで、イスラム復興=過激派というイメージが定着してたというのが定説である。

臼杵陽(1999)『原理主義 (思考のフロンティア)』岩波書店

しかし、一方でイスラム原理主義運動の大半は穏健的であり、一部の急進化したものが過激派であるという意見も多い。例えば以下のような整理が典型的である。

 イスラム過激派は、イスラム原理主義運動の急進的な形態である。現在のイスラム世界において、欧米のイデオロギーに対するアンチテーゼとして、イスラム復興を政治的に主張するのがイスラム原理主義である。しかし、現存するイスラム原理主義運動の多くは、その組織的活動の中心を、議会への穏健な政治参加、あるいは一般大衆に対するイスラム的教育や福祉の充実などに置いている。

 これに対してイスラム過激派では、指導者が伝統的なジハード(聖戦)概念を独自に解釈して暴力行使を理論づけ、組織本来の目的であるイスラム復興を達成する手段として、テロ活動が是認されている。イスラム過激派組織はもっぱら穏健なイスラム原理主義組織から分裂して結成され、(……)イスラム世界への「侵略者」を駆逐するためのジハードこそ、真のイスラム教徒にとってもっとも重要な義務であると主張する。

坂口(2003: 91)

「ジハード(聖戦)概念を独自に解釈して暴力行使を理論づけ」という時点で原理主義からは離れているように見える。すると、本来のイスラム原理主義とは穏健なものなのだろうか。

そのような捉え方もできる。例えば松永(2017: 105)は多文化共生の観点で日本におけるイスラム教への理解について論じているが、コーラン雌牛章256より、イスラームが本来的には他宗教について寛容であることを示している。

宗教には強制があってはならない。正に正しい道は迷誤から明らかに(分別)されている。それで邪神を退けてアッラーを信仰する者は、決して壊れることのない、堅固な取っ手を握った者である。アッラーは全聴にして全知であられる。

コーラン雌牛章256
出典:イスラムのホームページ

コーランを好意的に、或いは緩い宗教として解釈しようとすればいくらでも可能である。例えば、コーランにはアッラーの事を「寛容」や「慈悲」と形容する箇所が非常に多い。(寛容が58箇所、慈悲が106箇所)

例えば、豚肉について書かれたところは4箇所あるが、

言ってやるがいい。「わたしに啓示されたものには、食べ度いのに食べることを禁じられたものはない。只死肉、流れ出る血、豚肉――それは不浄である――とアッラー以外の名が唱えられたものは除かれる。だが止むを得ず、また違犯の意思なく法を越えないものは、本当にあなたの主は、寛容にして慈悲深くあられる。

コーラン家畜章145
出典:同上

かれがあなたがたに、(食べることを)禁じられるものは、死肉、血、豚肉、およびアッラー以外(の名)で供えられたものである。だが故意に違反せず、また法を越えず必要に迫られた場合は罪にはならない。アッラーは寛容にして慈悲深い方であられる。

コーラン雌牛章173
出典:同上

などやむを得ない場合(他、食卓章では上に迫られた者なども含む)は豚肉などを食しても良いわけである。

一方で日本ではイスラム教がハラール食を求めてといった報道が定期的になされ、それを煙たいと思っている人も少なくないはずである。

「やむを得ない」とはどこまでを指すのかテクストだけでは不明確であり、イスラム原理主義の「原理」はどこにあるのかが見えてこない。

それがジハードとなれば尚更である。先の松永(2017)も、

イスラームの世界観は「ダール・サラーム」と呼ばれるイスラーム教徒の共同体の世界と「ダール・ハルブ」と呼ばれる戦争、混乱の世界とで構成されている。

松永(2017: 104)

とした上で、

イスラームでは、「ダール・サラーム」を侵されることは、イスラームの世界の危機であり、そこに属する個人の死をも意味する。よって、敵に対して立ち向かわねばならないし、防衛する努力が求められる。それがジハード、いわゆる聖戦なのである。

松永(2017: 105)

と、平穏なイスラーム共同体としてのダール・サラームと防衛反応としてのダール・ハルブ、ダール・ハルブへの努力としてジハードがあるとしている。このジハードには内面での戦いと外面での戦い両方を含むが、

本当に信者とは、一途にアッラーとその使徒を信じる者たちで、疑いを持つことなく、アッラーの道のために、財産と生命とを捧げて奮闘努力する者である。これらの者こそ真の信者である。

コーラン部屋章15
出典:イスラムのホームページ

預言者よ、不信者と偽信者にたいし、奮闘努力しなさい。またかれらに対し強硬であれ。かれらの住まいは地獄である。何と悪い帰り所であることよ。

コーラン禁止章9
出典:同上

だから不信者に従ってはならない。かれらに対しこの(クルアーン)をもって大いに奮闘努力しなさい。

コーラン識別章52
出典:同上

とあるように、これだけ見れば非常に過激に見える。(「奮闘努力」がジハードの訳である。)

他宗教に寛容なアッラーから、財産と命を賭して戦うところまで極端な二面性があり(多くの宗教で二面性はキーワードとなるが)、肝心のダール・サラームとダール・ハルブの境界はコーランを読んでも見えてこない。

そういう意味では、2019年に流行った飯山陽氏の『イスラム2.0: SNSが変えた1400年の宗教観』は一面的な捉え方である。

確かに、インターネットによって誰でもコーランを閲覧できるようになったことでイスラム版宗教改革が進んでいるというのは重要な指摘である。宗教改革では、ラテン語を知る一部のエリートが聖書を独占していたところから、ドイツ語に翻訳されることで広く市民が聖書を読むようになってという意味で共通の構造があるからだ。

しかし、コーランのテクストだけでは「原理主義」の「原理」がそもそも何かというのも見えてこないし、仮に「寛容」と「過激」の両方だとしても、寛容から過激に移行する境界は不明である。

無論、社会構築主義など反本質主義の方は、そもそも「原理が何か」という問い自体に異論を持つだろう。しかし、ここではそういう事を言っているわけではない。原理主義を掲げる人がいる以上、その人の中では何らかの「原理」があるはずである。そして、非常に寛容な「原理」もあれば、ISILに代表されるような過激な「原理」もあるのである。

このように、イスラム原理主義は本来的に「多層的」であるのが実態である。その中で、インターネットではノイジーマイノリティなど極端な意見が通りやすい。暴力的な「原理主義」はその典型だ。

でも、真逆の「原理主義」だって存在する。先の豚肉なら、「やむを得ず」を非常に緩いものとして考えることだってできる。例えば日本で働くイスラム教徒が、「上司に誘われたからやむを得ずトンカツを食べた」や「忘年会で酒をつがれたからやむを得ず飲んだ」といったケースが実際にある。これだってイスラム原理主義と言えなくない。

イスラム教の成り立ちは「生存戦略」というのが有力である。砂漠で喉が乾いたからと言って酒を飲んではいけないといったのが最初だろうと言われている。豚の病気が流行ったから豚肉を禁じたとも言われる。でも、餓死しそうになっている時に豚肉を食べてもお咎めが無いのがコーランの記述である。

それならば、(最近はパワハラやらで減ったかもしれないが)「上司に酒をつがれたから飲む」というのは、日本社会で生存していく上で必要な事かもしれない。こういう考え方もイスラム原理主義と言えるかもしれない。

参考文献[1]:坂口賀朗. “イスラム過激主義とロシア.” 防衛研究所紀要 5.1 (2003): 90-106.

参考文献[2]:松永繁. “イスラームに学ぶ多文化共生.” 敬心・研究ジャーナル 1.2 (2017): 103-107.

       

この記事の著者 HAL について

金融・マーケティング分野の機械学習システム開発や導入支援が専門。SlofiAでは主に海外情勢に関する記事、金融工学や機械学習に関する記事を担当。

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