キリスト教は「強いAI」を想定している

カトリックのイエズス会出身であるローマ教皇フランシスコのAIに対する「倫理的活用」という意見に対し、AI倫理において「開発」と「利用」は区別すべきと筆者は論じたわけだが、この考え方はどちらかと言えばキリスト教の世界ではプロテスタントにおける見方に近いようだ。

2019年4月に、米国南部バプテスト連盟・倫理宗教自由委員会は12条に渡る人工知能についての声明を発表している。バプテスト派はプロテスタントの一教派で米国で最も多数派を占める。

The Ethics & Religious Liberty Commision, “Artificial Intelligence: An Evangelical Statement of Principles”

そのうち8条で「データとプライバシー(Data & Privacy)」、9条で「セキュリティ(Security)」について述べられている。8条では隣人愛と矛盾する形でAIを用いた強制的なデータ収集を拒否し、同意の必要性は勿論のこと、データの収集・操作自体が倫理基準に則ったもの(偏見の強化、格差の拡大、不正目的ではない)でなければならないと宣言されている。

9条では非人道的、非人間的、または危害を与えるような使い方や表現の自由を侵害するような使い方が拒否されている。一方で、人権の尊重、人命の保護や維持、正義の追求するための政府の責任を支援するための使い方として、治安維持、インテリジェンス、監視、調査といった目的でのAI利用を正当化している。

9条の内容が上記記事で筆者が述べた事であり、この点では(筆者はクリスチャンではないが)キリスト教の見方に則ればプロテスタント的ということになる。

一方で、1条・2条では人工知能に対するナイーブな見方に立つ条文がある。

1条「神の姿(Image of God)」では、人間は「神に似せて作った神の創造物」であり、「本質的に平等な価値や尊厳、道徳」を持ち、人間だけがドミニオン(統治権)とスチュワードシップ(管理権)を託されるというキリスト教の基本的な立場が書かれる。

これは「AIが人間の代替であってはならない」という見方である。つまり、造物主は神だけであり、人間が人間(の代わりとなるAI)を創造することはできないし、キリスト教としてはそれを人間としては認めないということである。

無論、同声明でも道具としての有効性は認める。2条「技術としてのAI(AI as Technology)」では、AIの開発が人間独自の創造的能力の実証であることを示し、それが神の栄光、人間の反映、隣人愛のために使われる限りにおいては認められるし開発・活用すべきと述べられる。しかし、AIなどの技術が人間の究極的な必要を満たすものではなく、道徳的な中立性も否定している。

1条と2条を通してイメージされるAIは、シンギュラリティが実現した上で人間を完全に代替してしまう「強いAI」である。しかし、AIのシンギュラリティは起こるが一瞬で終わるで述べたように、量子力学的なランダム性がある限りにおいて無限に進歩するAIは物理的に有り得ない。そもそも論として、カトリックにせよプロテスタントにせよ、恐れているAIの未来があまりにも高水準過ぎてかつ悲観的な結末を想定していると考えられる。

これに関して例えば西垣通氏も『AI原論 神の支配と人間の自由』で、そもそも生命と機械を分ける古典的な考え方はオートポイエーシス(自己を創出する)であり、「自律性」があってはじめて生命と言える。AIは人間が作っているという意味で「他律性」であり、進化していると言っても、進化のためのアルゴリズムは人間が事前に指定している。あくまでも環境に適応しているだけでそこに自律性は存在しないとし、素朴なシンギュラリティ論などを否定している。

About HAL

金融・マーケティング分野の機械学習システム開発や導入支援が専門。SlofiAでは主に海外情勢に関する記事、金融工学や機械学習に関する記事を担当。

View all posts by HAL →