今回からジョン・ハル著の”Options, Futures, and Other Derivatives”の邦訳『フィナンシャルエンジニアリング:デリバティブ取引とリスク管理の総体系(第9版)』(金融財政事情研究会刊)をベースに、数学的な部分を中心に解説を行っていく。
この本は金融工学・クォンツ・数理ファイナンスといったものを扱う実務家にとって必須の本とされ、外資系金融機関などではまず最初に読む事が多い。学問的に当該分野を扱う場合の教科書としても重宝され、原著では既に10版まで出ている。(入手の容易さや言語へのハードルを考え、このシリーズでは邦訳がある9版を利用する。)
とは言え、最初は「デリバティブとは何か」や「店頭市場とは何か」といった ごくごく初歩的な 部分から始まるので、この分野について全く知らない人でも前半は読み物としても十分に読める。
そういう意味で、この本は実務家だけのものではなく、情報の非対称性を改善するという意味でも、多くのトレーダーが読むべきものだと考える。実際、著者自身も第1章の冒頭で、あらゆるところにデリバティブが採り入れられており、誰もが
その役割や利用方法、その価格づけについて理解しなければならない段階(p. 1)
にきていると述べた上で、
好きであろうが嫌いであろうが、無視することはできない (p. 1)
という印象的な言葉を残している。実際、前半部分は関連分野の学部の入門的な教科書として使う大学もあるようである。
しかし、中盤から有名なブラック・ショールズ・モデルの導出が出てきたり、著者ジョン・ハルらによるハル・ホワイト・モデルや、『物理学者、ウォール街を往く。―クオンツへの転進』(東洋経済新報社)の著書としてもエマニュエル・ダーマンらによるブラック・ダーマン・トイ・モデルなど、クォンツを扱う上で代表的な理論が網羅されている。
その分、原著で 896 ページ、邦訳で1370ページとかなりの文量である。邦訳で12,960円と値段も張るが、1ページ当たりの値段で考えれば、他の専門書と比べれば破格と言って良いかもしれない。
本書は1988年の初版時点では330ページだったものが、時代毎の理論の発展や幾多のバブルの経験なども踏まえ、加筆修正されてきた。9版は2014年とリーマンショック後のドットフランク法など様々な規制ができる過程で書かれたものであり、リーマンショックを意識した記述が多々見られる。
例えば1章は基本的に先物契約の概念やその簡単な算数レベルの計算などについて書かれているが、一際目立つのが、ヘッジャーやアービトラージャーも時としてスペキュレーター(投機筋)になりうるという人間の弱さについて指摘している部分だ。たとえ金融機関内のトレーダーのモニタリング体制があったとしても、リーマンショック前のように株価が上り調子であると「物事が巧く進んでいるように見えるのでリスクを無視する傾向があった」と指摘する部分が印象的である。これは行動ファイナンスにおける「正常性バイアス」と呼ばれるもので、
金融機関は常に冷静に“なにか悪いことが起きないか”と問い続け、続けて“もし悪いことが起きたとき、どれくらい損するのか”と自答すべき(p. 27)
と警鐘を鳴らしている。
実際に本シリーズで連載するものは3章以降の内容であるが、1章・2章もCMEの歴史や中央清算機関(CCP)が現在の形になっていった過程など米国のデリバティブの歴史や制度面でも簡潔にまとめられているし、随所にあるコラム「ビジネス・スナップショット」も、誤注文によって生牛先物の手仕舞いができず牛を受け取るためにバタバタした話など読み物としても十分に楽しめる。